コラムcolumn
2025年12月16日
4番サード長嶋の誕生の真実は?

会計課の業務の中心は「伝票」です。この1枚1枚の伝票に対して会計課職員がチームとして、真摯に取り組むことが重要です。それにより、1年の集大成としての決算書が出来上がり、やがてその決算書が自治体の歴史となっていきます。その意味で、伝票の審査なんか「単純でつまらないな」、「財政課で予算の査定をやりたかったな」と思っている職員も、会計課に配属になったからには伝票に愛着をもっていただきたいと思います。
ここで、事例を紹介したいと思います。千葉県出身の読売巨人軍の終身名誉監督である長嶋茂雄氏の自伝「野球は人生そのものだ」(2009年・日本経済新聞社)の中で「それまでショートのポジションを守っていたが、銚子市営球場で行われた練習試合の第2試合の途中からサードに守備変更したのが4番サード・長嶋の誕生である」と記載があります。
この内容で、2か所ほど誤りがあります。練習試合をした球場が銚子市営球場でなかったことと、練習試合の第2試合の途中からサードのポジションに変更したのではなかったということです。長嶋氏の記憶違いと思われます。
では、事実を何で証明すればよいでしょうか?世の中には情報が溢れています。事実に基づく書類と信頼できる情報の公開元かと思います。野球の試合であればスコアブックを付けているので、それを確認すればよいと思います。
ここで、千葉県の市川高校(学校法人市川学園の中高一貫の学園のうちの高等学校が、市川高校です。)のホームページ掲載(2025.7.1理事長メッセージ#235」の内容の一部を紹介したいと思います。
6月3日ミスタープロ野球の長嶋茂雄氏が逝去されました。心からご冥福を祈ります。1953年6月、県立佐倉一高(現在の佐倉高校)、県立船橋高校と本校の3校による練習試合が学園グラウンド(現第1G)でおこなわれ、当時の高2・高3の野球部員(高校6回、7回卒)が出場しました。特に長嶋選手との対戦は、野球部OBにとって忘れられない思い出になっています。
実は長嶋さんが国民栄誉賞を受賞された2013年、当時の佐倉第一高校の監督だった加藤哲夫氏から、当時の試合のスコアブックのコピーを頂き、直接お話を伺いました。第一試合の船橋戦で主将4番ショート長嶋選手が、打撃は素晴らしかったが4失策し2-5で敗れ、監督は熟慮決断の上、第二試合の市川戦で初めてサードにまわし、その後のサード長嶋のスタートになったとのことでした。残念ながら市川は3-5で佐倉に敗れました。
ちなみに、市川高校は私の母校であり、在学中に「4番サード長嶋の誕生」の話は聞いていました。この記事は信頼できる内容かと思います。真実を伝えるスコアブックは会計の伝票ではないでしょうか?
一方、日本経済新聞「私の履歴書(4)」(2007年7月4日)の一部を紹介します。
この記事に対して、2013年6月11日の毎日新聞地方版に加藤監督は「交代は2試合目のアタマからだ」と証言し、その試合のスクラップブック(スコアブックのことと思います。)のコピーを広げたととのこと。こちらの記事は当事者がスコアブックを示して証言しているので真実かと思います。おそらく、試合途中の交代のほうが劇的だからということで作り話にしてしまったことかと思います。事実を見極めるのは大変であると感じました。
システム ディ顧問 宮澤 正泰(元習志野市会計管理者)