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コラム

2015.03 ミステリアスin京都 陰の平安京造営者・秦氏一族…平安京前史

蛇塚古墳 平安京の条里の西側になる西大路から桂川に到るエリア、観光的には東映映画村から嵐山に到る一帯は昔から秦氏一族の本拠地で、中心が広隆寺辺りとなる太秦である。ここ (山背国) に秦氏が住み着いて京の歴史が始まった。おそらく、その昔は水量豊かな桂川流域の湿地帯であり、秦一族の頭=秦酒公(地を裂き水を流す秦のサケキミ)により埋め立てられた津=梅津(埋め津)から嵯峨野北西の丘陵地まで豊かな水田耕作地だったのだろう。

 その秦氏一族は、朝鮮半島から渡来したのか、或は中国大陸の秦の始皇帝の子孫たちか、さらには遠くシルクロードの西端アラビアから来たユダヤ系民族の末裔か、今となってはそのどれもが当てはまるようなロマンではあるが、飛鳥時代には、族長の秦河勝が聖徳太子に請われ大蔵吏となって国家財政を担い、弥勒菩薩半跏思惟像を賜って広隆寺を建立したといわれる。他方で、全国各地の秦氏一族が文化・産業・経済で大きな影響力を発揮していたのは新撰氏姓録等からうかがい知れる。『地域振興なくして産業振興なし、産業振興なくして地域振興なし』という当社のエンジニアリング事業のポリシーが既にこの時代に秦氏によって展開されていたのだ。

 聖徳太子の死後は、秦氏は政治を避けていたのか、蘇我氏による山背大兄皇子の抹殺→大化の改新、そして壬申の乱、平城京への遷都という激動の政治過程には関わらず、山背(山城)一帯の開拓と産業振興に専念していた。
 だが、桓武天皇による新しい世界を求めての長岡京への遷都では、造営長官‣藤原種継の義父として、種継亡き後は同じく平安京造営長官‣藤原小黒麻呂の義父として後ろ盾となって新都建設に取組み、秦氏一族は平安京の最大のスポンサー兼サポーターとなった。
 しかし、秦氏一族はその後も養蚕業や農産業、酒造業、土木・流通業等の発展に尽力したが、決してそれ以上の存在になることはなかった。(M)

(写真は秦河勝の墓とも言われている蛇塚古墳…嵐電帷子ノ辻駅から徒歩5分です)

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