コラムCOLUMN

2016/02/01

2016.02 姉さん六角 京の道…映画の都 太秦のキネマストリート『大映通り』

大映通り 長年にわたって京都に蓄積されて来た美意識と職人芸が、20世紀の新しい表現技術と出会って劇映画が生まれ、京都発の多くの名作・ヒット作を送り出してきた。
 日本のハリウッドと言われた太秦(ウヅマサ)の地には、撮影所こそ今は少なくなったが、それでも東映映画村をはじめ幾つかの関連施設や記念碑などの名残りがあり、随所に映画の香りがただよう。

 島津製作所が協力して木屋町の京都電燈株式会社の中庭(後の立誠小学校)で日本初の映画上映が行われたのは、明治30年である。明治41年には、これも日本で初めての劇映画『本能寺合戦』が日本映画の父と言われる牧野省三によって製作された。ロケ地は左京区の真如堂だった。その後二条城脇に撮影所が開設されたが、ロケ地の環境に誘われるかのように西へ西へと移動し、映画全盛の昭和30年代には大映、松竹、東映などの撮影所と映画人が太秦に集まり、この地で国際的にも高く評価された名作や傑作が数多く制作された。

 今は記念碑があるだけだが、大映撮影所のあった嵐電『太秦広隆寺駅』から『帷子の辻駅』への通りは、『大映通り』として映画絡みの装飾による街路整備や映像コンテンツの競作イベント等、映画をテーマにした街づくりが行われている。スーパーの前に『大魔神』が仁王立ちし、映画博物館のようなカフェがあったり、かつて店主がエキストラとして出演したお店や映画人ご用達のお店が今も商いし、懐かしのポスターや台本、俳優や名監督の色紙等が展示されていて、往時のスターや裏方の執着心ともいえる情熱と創作意欲を垣間見ることが出来る。

 3D・4Dを初めとする最近のデジタル映像技術の発展は目を見張るものがあるが、「先ず技術有りき」になりがちである。太秦に集ったかつての映画人の職人のようなこだわりと情熱を根底に置いた映画作りになれば、より感動的な作品に結実することだろう。『大映通り』は、21世紀の新しい映像文化を生み出すインキュベーターでもある。(M)

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